昭和51年11月18日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 これはあの信心が無くても、こういうおごりがましい事をしてはならない。いわば始末倹約質素な生き方をと言う様な事が、まぁ一つの美徳のように日本では言われてまいりましたですね。ですからこれは信心がなかっても、あのこれは信心は例えばある意味では、抜きにした、そのう考え方から出ておる私は御教えだと思うですね。ですから例えそうであっても、そんならこれをおかげに繋がるおかげを頂いて行く。お徳を受けて行くという頂き方をしなければ。
 例えばこの教祖の神様のみ教えもです、値打はない訳です。まぁこんいうならこの位な事ならば、教祖様じゃなくても誰でも知っておる事ですし、まぁいうて来た事ですからね。おごりがましい事をしちゃならんとか、細うても長ういわば続くとでなかにゃ繁盛ではないとか。だからこれを信心で、あのう頂くいわばおかげが受けられる受け方。お徳が受けられる受け方。をこの84節からヒントを得て、これをそのように深く頂いてまいりますと、おかげにも繋がる、お徳にも繋がると言う事になる訳です。
 昨日研修を終わりました後で、高松順子さんが、今朝あの先ほどからご心眼を御祈念中に頂いたと、ならどういうことを頂いたかちゅうたら、「680」という数字を頂いた。6ということはお徳ということ。8という事はいよいよ広がりに広がって行く繁盛の事。それにはれいであるれいゼロ。ゼロになるそういう生き方を、受けていかなければならない。そしてもう信心させて頂くなら、神徳霊徳というものをに触れて行っていかんと、なかなかおかげが受けられません。本当のおかげが受けられません。
 先日も4時の御祈念の時に、ご心眼に鯉の滝登りを頂いた。鯉の滝登りをしておる様子。鯉というのはお徳と仰る。だからそん時私は初めて気付かせて頂いたんですけれどもね、生神への精進というようなものは、まず霊徳神徳を受けて、それからでなからなければ、生神への道が開けてこないということです。まぁ例えば私の、信心の歩みというものを皆さんが聞いて頂くが一番分かるですけれども。
 合楽の信心が非常にこう、先日昨日は合楽会の共励研修日でしたが、西岡先生が今度丁度十日ほど、息子さんの家に歩きに行っておられました。して帰ってきてからもう合楽の信心が、もうそれこそ手探りせんならんような分からなくなった。あんまり飛躍しておるから。毎日今その十日間たまっとるとをずっとこう、あの収録されて行きますからね。もう本当にただただ驚くばかりだとこういうわけです。
 例えばこの心行の内容についての信心なんかは、もういよいよここ十日間なら十日間余りの信心を頂いておらなければ、分からないことばっかり。例えばなら私がまぁいうならば、神様都都逸を歌わせたもうと言った様な有り方から、そう言う様なものではない。次のいうならば信心に飛躍していく。例えば改めてスキッとしていくと言う様な事なんかは、もうこりゃまぁ私の独壇場だと皆が言うくらいです。
 これでもね向上せんならん、進めにゃならん。信心を一段と高めていかにゃならんというのが、ただ熱心になっていくだけ、ということじゃないんです。改めて行くということなんです。信心が進んで行くということは。だから気がつ一生気が付かんなりに、ただ一生懸命拝んで、一生懸命参ったという人があるけれども、それではいけない。気付かせてもらったら、又は分からせて頂いたら、さっと次のなるほどしてみると、私共が神様からお知らせを頂くというような一つの霊徳でしょうが。
 霊徳を頂いておるから、いうならば鯉の滝登りのような事が出来る。普通で出来るはずないですはね。普通の魚じゃそげん滝場を登って行くようなんてん出来ん。ただ鯉だから出来る。お徳を受けとるから出来る。そこに神格というか、一段と高い神格が飛躍的にそこに開けて来るわけです。だからどうでもあのう神様のお言葉をです、本当に行じさせてもらい信じさせてもらい。神様から右だ左だと頂くようにならなければ、本当の信心は飛躍しない。
 いわゆる神様に近付いて行くなんて言う様な事は、出来ないということが言えますね。昨日もある方もう大変なおかげを頂いて、もうただ恐れ入ってしまうとこう。だからその恐れ入って、それから何かお供えの一つもさせて頂くとか、まぁお役に立ちたいと言う様な意味の事をいっておられたら、「その恐れ入った心で改まれ」と頂きましたんです。この神様はだから御用してくれとかお供えしてくれなんかと言う様な事を、頼みなさるようあ神様じゃない。
 その恐れ入ったというその恐れ入った心で改まると、改まりの出来ない事でも出来るというのです。なら順子さんが頂いております680。徳を受ける広がりに広がる。今日の御理解、いうならそうですね。広がりに広がって行く。細い道でも踏み広げていかなきゃいけんのに、パーとひらけたとか思うとそれを又踏みにじるようなことをしたり、草をはやすようなことをするような、ことをいうたりしたりする性格の人がありますね。何のため合楽で稽古しよるのと、何のため今合楽が心行心行と言われておるのと。
 言いたい様にです心行しとらん証拠に、もう本当に一遍に頂いておる信心をぽろっと取り落とす様な事を言うたり思うたりして、いわゆる広がりに広がって踏み広げて行くような、信心に繋がっていかない人があるです。惜しい事である。だからそういう人が、なら改まらにゃ出来ん。自分にはこう言う様な性格。こう言う様な欠点があるから。そこを心行させて頂いていきよると、その改まらなければならないと言う事は、子供でも成そうと思えば成せれる様な事を、改まろとはせずにもう是は私の性格だからと。
 と言う様な事を平気で言うたりする人があります。これでは踏み広げて行く事が出来ませんです。だから又段々そういう信心させて頂いておるうちに霊徳に触れ、神徳に触れてお徳を頂いて行くと、これはもうどうでも、例えば白が赤になれれるくらいな改まりが出来て来るです。これはもう本当にそうです、私それにのここれば頂いてなるほどお徳を受けなければ、本当に神様に近付いて行く程しのいうなら時の、滝の鯉の滝登りのようなおかげは受けれられないと思いました。
 そこでですそんならそのまぁ608という、680という最後のれいということはゼロということ。結局一番素晴らしいのは、何時も自分というものを空しゅうしていくということ。自分という者をいうならば死んだ気でということ。これが最高の事です。死んだ気で務めていけば道も開ける、徳も受けられるのです。ところがなかなかその死んだ気になれないところに、まぁ色んな問題があったり、する訳であります。
 昨日の夕べの研修の時に、いろいろもう皆さん一人ひとりに発表させましたが、もう本当にもう一人ひとり素晴らしい、あのテープにとっといて皆に聞いて貰いたい様な一人ひとりが全部、あの発表をなさいました。久富繁雄さんの発表を聞かせて頂いておって、まぁ本当に繁雄さんらしい、今まではろくそなかろくそうのしてから、神様でんなんでんもう家内に任せてお掃除やらなんでんしよった。
 ところがこの心行がいわれるようになって、私はあのう朝の御祈念から帰らせて頂いて、そして必ずお神様をお掃除させて頂くようになった。今までは誇りだらけのような感じの床の間が、ピカピカ光るようになった。本当に確かに柏手してご神前に向かう時に、いわゆるご神前じゃない。その神様じゃない。八足じゃない。その下の床の間が光、ピカピカ光よるのをみてから心が有り難くなると。心行とはそれなんですよね。心行の功徳ですよこれは。
 西岡先生が先日から、むつやのあの香世子さんが、おじいさんの霊祭にこれなかった。だから私通知していなかったのかといったら、いや通知はしておりました。ばってんまぁ忙しい風であった。丁度その日が富久信会でしたから、信司さんが見えましたから、あの、そんな話しをしましたら、もう私もう今日は富久信会だから、早うと思うて、そのう店の方から、あのあちらの方へ帰らせて頂きましたら、家内がもう顔をこうかかえてから、そのもう今日はすいませんご飯も出来ておりませんち。
 もうとにかく耳が疼いて耳が疼いてから、もうどうにもしようがない。ならもうご飯なよかよかというけれども、まぁ四人の子供がもうそれこそ、五つ頭に四人ですからね。もう泣きよるともありゃけんかしよるともおる。もう本当に私は今日は富久信会に出てくるとに、後ろ髪を引かれる思いでしたとこういう。なら今日は俺はもうご無礼していくめいかちいおうごたる、思うような状態であったけれども、そのまぁ今日は富久信会だからというので出てまいりましたら、お広前へ座った途端に感動が湧いてきたち。
 私は感動なんか感動とか喜びというものはそうですよ。そげなことじゃったのと。私は今日はあのあんた方んいうならば奥さんのお爺さんの、初代壱岐の教会長先生の霊祭をここでさせて頂いた。いうなら孫に当たる香世子さんが、今日はもうお父さんすみませんけれど店を早く閉めてから、今日は霊祭ですからというてお爺さんの好きな物一つも持って、お参りをしてくれば良かったんだけれども、言う事聞かなかったけん耳が痛うなっとるとばのち私が申しました。
 だから帰ってそのことが言うてんの、はぁほんにそうでしょうち、いうたらもう直ぐ痛いことはようなるよち私は申しました。本当にそのことを信司さんが帰って申しました。そしたらもう、本当にそれほどの疼き痛きするとが、その何かそのなが耳が詰まったようにあるそうですけれども、痛みだけはすっきりとれたというて、明くる日それこそ四人の子供を連れてからお参り、したもう何時も一人か二人連れて来るとですからね。普通よりかは連れてくるとです。
 四人も私は今日一遍に連れてきたのは、なるほどこの四人の子供が、本当あの泣いたりそれこそ喧嘩したりするならもう、ちょいとその香世子さんがえらかち私はいいました。それでお商売させて頂いて、本当に年よりどんがおってから孫どん見てもらうちゃ、もうそりゃほんのおおごとですばい年よりば。ほんと夫婦指し向きで、しかもその四人の子供をですね、あの見ながらもうおそらく見ながらちゅうかもう、部屋に閉めこうちから、お店の方行ったりするじゃろうと思いますけれども。
 晩なんかはあの二人ずつ子供を、乳母車に乗せちから眠るまで表へをこう歩かにゃんそうです。もう並たいちゃにゃこっちゃない、そしてあれだけの事をしていきよるというのですから、本当あの人どん夫婦えらいち私はいうたことでしたけどね。その時のことを例えば西岡先生が聞いておってですね。親先生例えば、あのいうことを聞かなかったから、耳が痛いというおち。
 いうそのことが分かったら、直ぐようなるよというような事を、いわれるというのはあれは、香世子さんの何処を見込まれたらそういう風にいわれるのですかとこういうことです。どういうことなんですかて。他のもんなら言えれんち。いうならば香世子さん、教会で育って、神様の御霊様のなんたるかということも、おぼろげながらそれこそ聞き覚えで知っとるはずだと。御霊のお祭りがどのくらい大事なものかと。
 それを疎かにしたから他のもんなら、そげなことなかったかもしれんけれども、香世子さんだったからそうだった。明くる日はもう本当に、お礼とお詫びに子供四人連れて、あのう出て来ましたがね。同時になら私もです香世子さんの、に神様のそうした期待がある、ということを私も信じておるから、神様がねあの有り難い方にも、有り難くない方にもはっきり現れなさることを信じておるから、そういうことがいえるんです。と言った様なお話しでした。
 昨日は昨日一昨日から参ってきております、日田の駅前に、日田というレストランがある。そこのご主人が、坂本さんのお導きでお参りをしてきております。もうそれこそ大変ななんとか癌で、手術をして手術は立派に出来てもうそして退院してきた。所がご飯食べ物が食べられん、食べたちうたらもう体半身がもう疼きはしりして、もうどうにも出来ないという病気。もうそれはもう大変な病気だったらしいですね。
 それを坂本さんが聞いて、あの合楽の話しをしてそんならどうでんこちらに連れていってくれ、というて一昨日参って来た。で御理解頂いて帰り私が思う事はですね、もう帰る道道車の中で、昨日の朝坂本さん参ってきてお届けされるのに、もうとても夫婦の者の喜びちゅうたらありませんでしたち。もう本当に合楽の親先生ちゃもう奥の奥の方におって、お取次ぎでんしていただかにゃんごと思っとったら。
 いうならここの店先に出てござって、しかもあの懇切にお話しを頂いて、もうこげな嬉しかったことは、こげな有り難いことはなかったというてお喜んで帰った。ところが帰らせて頂いた。途端にその痛みだしたわけです。それがもう何時もにない又痛みであったらしいです。ところがおかげを頂いてしばらく痛んで、良くなってそのまま休ませて頂いて、今朝まで覚えんごと休ませてもろうて。そして今日一日、昨日あの夕方お礼に親子三人で出て来ましたが、もうそれっきり痛みがなくなってしまっとるそうです。
 そのことを私は神様にね、お礼申させてもらいよりましたら、権兵衛が種蒔きを頂きましたです。権兵衛が種まき知っといなさいましょう、権兵衛が種まきゃからすがほこじる、という踊りがあるですよね。それこそお互いがね、もうそれこそ初めて合楽にお引き寄せを頂いてこげな有り難いところ、こげな有り難い先生がござるちしらじゃった。こういう有り難い先生に引き合わせて頂いたことは、もう本当に有り難うしてこたえんというて、帰った。
 喜びの種がまいてもう喜びの芽が出てきたわけ。これはもう必ずそうです。皆さんでも信心の喜びが出たらその喜びが、ずっと伸びると言う様なこと絶対ありませんよ。今日の御理解もそう。これを踏み広げて行くのが繁盛でありますように、喜びの芽が出たらね、それを邪魔するような雑草が出来たり、それこそからすがほこじりに来りする、それを追い払うたり雑草をとったりして、初めて道が開けるのです。
 それをもうそげなことはせんでですね、おかげ頂こうと言う様な例えば、合楽にお参りしたらもうおかげからおかげ、又売れた又売れたと言う様なことがあろうはずないです。その信心の喜びが育っていって、しかも黒いねからすということは私は苦労だと。苦労ということです。めぐりということです。そのせっかくの喜びの芽をからすがほこじりにくる。そのほこじりにくるそのからすが降りたところ、誰かがボーンとこう一撃を壊したところを頂いた。いうならばめぐりが一撃を食らった。
 そこにもう今日丁度その晩から、昨日の夕方までですから、ほとんど24時間、全然痛まんなりに、もうこげな恐れ入った話しはない。こげな有り難いことはないというての、お礼お届けでした。けれども一時はそうさせてならこりゃまぁ私が一撃を与えて、ということになるかも知れません。まぁ昨日の御理解からいうと、金光大神がそうお取次ぎして下さったということにもなります。けれども又別のとが降りてくる。そんなもんです喜びの芽えを、いわば大事にして育てて行くということは。
 そういういうならば、手を入れて初めて立派に育ち、花ともなり実ともなっていくんです。それでどんなにシャープなおかげが今合楽で現れておるというてもです、そのいわば信心の喜びを芽を育てて行くということは、今日の御理解でいうと、道を踏み広げていくという事です。確かに喜びの芽が出る。その喜びの芽が出る、からすにほぐじられてから、もともこも無くしてしまうと言った様な事ではいけんでしょう。
 「道に草を生やすようなことをすな」という。いかにそこが大事だか事かということが分かります。踏み広げて行く次第に広がって行くとでなかなければ本当の繁盛じゃないです。ならその繁盛していくその道すがらにはです、今申しますように喜びの芽が出る、喜びの芽を切る。そこにはもうからすがほこじりに来る。そのからすを追い払うたり、していく精進がなされなきゃならない。
 昨日昼下がらせて頂きましたら体が寒気がきて、あぁたこりゃ風邪ひきよるかなと思うて休ませて頂きましたら、もう休んだら寒くなって、あぁ布団やら毛布やら又あの着せて頂いてちょっと休みました。もう目が覚めましたら体の節々が痛くて、痛くてしようがない。今日はもう午後の奉仕は出来ない。三時の研修は出来ないから、もうそげんいうといてくれというて、家内にそちらにようしあげやりました。
 もう本当にこの頃からおかげを頂いて、この心行をこうさせて頂いておるが、あんまり寒くて沢山布団着とるから重たいから、布団をとってから暖房ば入れてくれと。というて暖房を入れました途端に、はぁこの心を大事にするとか、体を大事にするということが信心だが、これはあのう暖房ば入れなかったことが、神様のご無礼になっとったなと気付いたんです。
 昨日、一昨日、末永先生が暖房を入れますとこういう。いやまぁストーブを入れて、まぁ十二月から焚くごとしようて。それけんそれまではまぁ辛抱しにゃ、十二月から十二月一日から暖房いれるごとしたら良いよと。いかにもこれはあの素晴らしいことのごたるですね。けれども今の合楽はそうじゃないです。寒いなら暖房を入れるのが今の合楽です。寒いならそこにストーブをいれるのが今の信心です。
 忠ですね、必要でないものに汗んぶるぶる出るごと温もっとるとに、暖房を入れるようなことはいけません。私は昨日その事を分からせてもらったんですね。それでははぁ例えばこう始末倹約をすると。いうなら今日の御理解じゃない、おごりがましいことのように思うておったんです。ところが決してこれがあの借金まで負うちから、暖をとるてんなんてんちゅう事はいかんかもしれませんよね。けれども合楽の場合は、人にご迷惑かけることもなきゃ借金はお断りはない。
 結構そのおかげを頂いておるのですから、もう暖房のそこに設備があるのですから、ちょっと押しゃそんなに布団は何枚でも着らねばならん様な事が、ない程しにおかげ頂くのですから。そげん思うてですね、ははぁこれが心行に伴う合楽の信心だなと思わせて頂いた途端にですね、もう嘘の様に分の体から何かが抜けていく様にスーと凝りやら、その寒気がとれましたんです。取れました途端に末永先生があのやってきましてね。
 今あの日田からあの親先生に是非お取次ぎを頂きたいというて、あのお願いに見えております。という時にはもう出てきてよい。すっきりした体だったですから。どういうことは知らんけれども、私がこういうおかげを頂いておる事を、話させてもらうと思うて、ここへ来ました。そしたらもう本当に話しを聞きましたら、あの26になる娘さんが、卵巣癌です。それを切開してそれを取り除こうとしたけれども、もう転移してからどうにも手がつけようがないです。
 自分は対した自覚症状がないそうですから、もう何時は退院出来てまぁはしゃいておられるのを、見たり聞いたりして両親がもうたまらん。もう医者からはもうどれだけしか持てない命だって、はっきり言われとるとです。本人が知らんだけなんです。それには本人は、あのうまぁはしゃいでもう何日すりゃ退院できるというてその、喜んでおるのを見たら、もうとにかくたまらんというておられるところに、坂本さんがいかれた。遠い親戚になるそうです。
 それでならその両親にその合楽の話しさせて頂いたら、もうそりゃもうどげんとうかったちゃどがしこ金んかかったっちゃよいけん、いっちょ連れていってくれで、昨日見えとったでしたから私がおらにゃいけなかった。だから私が本当にあの、肉体というものと心というものはこんなにも密接な関係があるということをです、私のその今さっきまでもうお広前に出てこられんぐらいにあったのが、もう一遍にスーッととれた話しをさせて頂いて、まぁお取次ぎをさせて頂いたんですけれども。
 まぁ私はあのお取次ぎをさせて頂いて思ったんですけど。これは益々重態になるち。そしたらね、そのあんまり気分がよかもんじゃけん散歩しよったげなら、意識不明になって倒れた。もういわば本当の症状が現れだしたわけです。それでもう親たまらずになら昨日はお願いに見えたわけですけれども、これは益々重態になる。一山二山もまだ越さんならん感じだけれどもね、そん時に一生懸命にお縋りしなさい。そこで力を落としなさんな。そしておかげを頂く。
 だからあの心配するなというても、心配せん心配がなくなると言う様な事はありますまいけれども、だからその心配する心を他の方へ向けづに、心配する心で合楽の方へ心を向けてきなさい。あんたどんがいうならば重い荷物を引いて、夫婦でこう行くようなもん。後から坂本さんが一生懸命後ろから後押しをする。そういうおかげが受けられるから、あの段々重態になって行くけれども、重態になったからというて力落とさずすがっていけという御理解でした。
 もう本人達も大変まぁ喜んで帰られましたが、帰った直ぐ後に日田から又電話がかかって来た。森山さんじゃった。森山けいこさんちゅう方電話がかかって。もう私はそういう時にもう、ほんに私の言うておることを、実証して下さりよる感じがするんですよね。その本人もけいこさんていうんですよ。その癌がしかも私が御理解を説いた通りでしょうが、森山けいこさん。森は三つの木と書いてあります。山でしょうが。だから夫婦のものが引く後ろから、あの坂本さん達が押すという。
 三つその三つのその心が一つになって、おかげを頂きゃどういうそれがもう難しかろうというごたる重態になったっちゃ、その山を登り切っていった時が、おかげが頂かれる時だと。もう無い寿命であっても、又新たな寿命を頂くことの出来るほどしの、おかげであるということも、私はその帰られた後にお取次ぎさせて頂いてですね、あの有り難いそういう風に思いました。その後にあの又今さっき話しました、あの一晩で痛みが取れたというお届けがございました時にねその話しをするんです。
 あんた方がこうやって参ってきとら、参ってきとるけれども実をいうたら、参ってきとるとじゃないばいて。参らせて頂いとるとちゅうことは、合楽の教会にその森山さんという人が一人参ってくるがね、あんた達が親子三人参って来たから森山が三人続く。この方も森山ちゅうとげな。もうこげん間違いのない働きの中に、あんた達が合楽に参ってきよるとばい。又それから改めて有り難かったごたるです。森山という人の次に、又その森山さん達が親子三人で参って来た。
 だから自分が参りよるとじゃない、参らせて頂いておるということが分かる。又こういう働きの中でご守護を頂くのだから、おかげ頂くはずよというてまぁお話しをしたことでした。いよいよ喜びの芽が又少し伸びた。そして又ならからすが降りてきてもです、それをはらうおかげを頂いていくうちに、段々有り難いというものが育ってくる。段々信心が長うなっていきよると、いうならマンネリになってしもうて、生き生きとして喜びが湧かんようになってくる。
 いかに精進しよらんかということが分かる。もう信心はさらな精進さえさせて頂いておれば、それが血に肉になってさえいきょれば、昨日椛目の宮崎さんがお届け、あの発表しておられましたが、合楽会で。もうとにかくもう合楽の信心ここ何ヶ月間のことをこう思うてみて、あのう「養素拝山」と言う様な、あの御理解頂いた。あの時分からずっと、その時その時にこうポイントになるような、御理解を頂いてきておるが。
 もうあんまり矢継ぎ早だから身に付かんままに、次の信心になるからと言う様な意味のことを言うておられたが。それはその時に本当に行じたら、もう血に肉になっとるとです。それを守らんから血に肉にならんし、新なものも生まれてこんとです。だから信心は日々の御理解がです、その日の生き生きとした新なものになって行く養素になるのです。そういう生き方をしよればです、決して長うなれば長うなる程有り難いというものが育っていきよらなければならないはずだけれども。
 毎日毎日朝の御理解を疎かにして頂こうとせん。行じようとしないからもう信心が詳しゅうなったごと思うて、詳しゅうなったと新な心と信心とは別ものなんです。もう何時も有り難いというものが湧いて来る様なおかげを頂く為に、日々の新な御教えに触れて、そしてそれを行じていかなければ、新なものは生まれてこんです。そういう行じる事にうとくなってくるんじゃないでしょうか。
 それではいうならば末広がりのおかげになってこない。お掃除をするそこにピカピカ光るごとなる。そのピカピカ光るのを見てから、心が有り難うなってくると。その有り難くなってくるそのことが新な心なんです。繁雄さんがそれを行じよんなさるから、そういう心が有り難いことになってくるわけです。草も生える暇がない。おごりがましいということは、ただ贅沢をすると言う様な事でしょうけれども、例えば今の合楽で暖房を入れるということは、決しておごりがましいことでも贅沢でもない。
 今年はもう今月はもう五十何万円も石油代を払わんならんけんで、信者さんから金借らにゃんちいうごたるならば、こりゃもう入れんがよかです。それこそ借る事もいらん。かぁるうそれが払えて行けれるというならです、それは一つもおごりがましい事じゃない。だからこの御理解をただ信心を抜きにして頂くと、信心の抜きにしたものでもこん位な事は知っとる事になりますから、それがいかにも美徳の様な思い方をしてです、始末倹約をする事が、信心の様に私は思い方をしておる人が沢山あると思うです。
 今の合楽の心行に伴のうたと言う事はです、昨日私が体験したように、私が布団を取って暖房をいれてくれというた途端にです、それが体を大事にする事でもあると言う事を、分かった時です、途端にそれこそそのきつい苦しいものが抜けてしまうような体験を得て、次の人にその体験をお取次ぎさせて頂く事が出来たようにです。ここ辺のところを一つあの皆さんはね、あのおごりがましいと言う事は、自分のいうならば甲斐性にも叶わん様な事をする事が、おごりがましい事であってね。
 頂いておる物そしてそれに心行がとものうて、頂いていくものならばです、それはむしろ神様が喜んで下さる事なんです。はぁ寒いけん布団着せてくれそして重とうしてこたえんというとを神様が見てから喜びなさるじゃろうか。それよりもちょっとボタンいっちょおしゃ暖房が入るごとなっとるとを、布団を軽くしてそして部屋が温うなって、はぁこれが体を大事にする事だなぁと思うたら、途端におかげを頂いたと言う事実をね、皆さんがあの聞いて頂いて。
 ははぁおごりがましいという、又はそのでないと言う事の信心で頂く頂き方を今日はまぁ聞いて頂いた訳です。同時に一つその中に例話を持って申しました様にです、お互いが信心させて頂きゃ必ず信心の喜びの芽が出る。だから朝お参りをしてです、その感動もなからなきゃ喜びもないならばです、いよいよ頂き方が悪かったと思うてです、もう一遍御理解を頂く位な気持ちで、それを本気で行ずるという気になる。
 こと神様の事というたら何をおいてもそれこそ、信司さんじゃないけれども、後ろ髪を引かれる思いであっても、神様の方へ出てくると途端に神様は感動を与えておられる。そういう所のこつあいというものをです、踏み広げて通って行く信心に頂いていかなきゃいけない。こんならもう必ず広がりに広がって行くおかげが受けられます。どんなにパーとしたもうこう功者な事を言うても、こう立派な事を言うてもです、もう本当に一遍にあの冷めて終う様な事を言うたり、したりしょったんでは。
 又そこに一杯雑草が生えてせっかくのまいた種が、いわばからすにほくじられてしまうことになりますから、確かにまいたはずじゃったけれども、芽も出らなきゃ花も咲かんという結果にしかならんのですよ。だからこの辺のとこを信心させて頂くなら、しっかり頂いていかなければいけない。そしてギリギリのところをです、順子さんが頂いておりますようにね680です。お徳を頂かなければ、いよいよ神様へ向こうて行くと言う様な、霊徳神徳を頂いてね。
 不思議に神様から右ぞと言われたら、普通なら出きる事じゃない事でもです、神様から右ぞといわれると右に進んで行く事が出来る。これは私の信心を皆さんがインタビューをさればよい、なるほど神様から頂きなさるから、あげんすぱっと切り替えていく事が出来るんだということを、まぁこれは私の信心をみて頂けば分かる事です。だからお徳を頂かなければ、本当の意味での神徳。いうならば神様へ近付いて行くというような鯉が滝登りをするような、一段神徳が上がると言う様なおかげは頂かれん。
 為には一つ680ですね。徳を頂いて広がりに広がって行くためには、何時も自分をゼロにしとかなきゃならんです。自分というものを空しゅしとかなならんと言う事になります。これがまぁギリギリのいうならば、御教えです。けどもなかなか空しゅうする事が出来ません。そこに例えば今日皆さんに聞いて頂いたです、だからこの心行と言う事なんかでも、まだこりゃ恐らく一生がかりで、この事に取り組んで行く事でしょうけれども、昨日改めて分からせて頂いた心行、を今日は聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。